野球伝来150年:ウィルソンから大谷翔平まで | nippon.com

2022年、もはや日本の「国技」と言っても過言ではない野球の歴史が150年目の節目を迎えた。高校野球への熱狂、プロ野球の隆盛、大リーグでの日本人選手の活躍、日本人にとってなくてはならない娯楽となった野球の伝来から今に至るまでの歴史を概観する。

明治維新と外来スポーツの伝来

200年以上に及ぶ鎖国を脱して開国に踏み切った日本は、近代化に向かって走り出した。欧米の制度・文物を積極的に導入したのである。その一環として多くの外来スポーツがもたらされた。明治以前に日本にはスポーツは存在しなかった。あったのは剣道、柔道、弓道などの武道であり、庶民がプレーして楽しむ、見て楽しむスポーツではなかった。

外来スポーツは「お雇い外国人教師」がもたらした。ベースボールは1872年、第一大学区第一番中学(翌年、開成学校に校名変更、後の東京大学)に赴任した米国人教師ホーレス・ウィルソンが、学生に手ほどきしたのがそのはじまりである。150年前のことであった。

野球殿堂博物館(東京都文京区)内に掲出されているホーレス・ウィルソンのレリーフ ©野球殿堂博物館

こうしてベースボールは旧制一高、明治学院、慶應、早稲田など、学生中心に普及していった。当時のエリートがベースボールに取り組んだことは、ベースボールの日本における価値を高めることになった。やがてベースボールは「野球」と訳され、一般大衆にも広がっていく。

野球人気を盛り上げたマスメディア

野球人気に目を付けたのは新聞であった。全国の中学校に呼びかけ地方大会の優勝校が県代表として全国大会に出場、日本一を目指す大会を企画したのだ。大阪朝日新聞社主催の第一回全国中等学校優勝野球大会が開催されたのは1915年8月のこと。夏休みを利用しての「夏の大会」に対し、春休みを活用しての大会を企画、実施したのは朝日のライバル、毎日新聞であった。夏の大会が終わると最上級生を除く部員で地区の秋季大会を戦い、成績・試合内容などを審査し、選抜して全国大会の出場校を決める選抜中等学校野球大会である。24年4月のことであった。

24年8月、甲子園大運動場(現・阪神甲子園球場)が完成、中等学校野球日本一を決める舞台が用意され、「中等球児」の憧れとなった。言うまでもなく、夏の大会は「汗と泥と涙」に象徴される「夏の甲子園の高校野球大会」に発展し、「春の大会」は「春は選抜から」に代表されるビッグイベントとして定着した。

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1985年の全国高校野球選手権大会決勝で2年ぶり3回目の優勝を決め喜ぶPL学園ナイン=阪神甲子園球場、1985年8月21日(時事)

新聞が試合の状況のみならず、出場チームのエピソード、地元ファンの声などを伝え、読者を魅了するとともに、25年3月にスタートしたラジオが実況中継を行うようになると野球人気はさらに盛り上がった。さらにこの年にスタートした東京六大学野球は、甲子園球児が早稲田、慶應、明治、法政、立教に進学、東大も一高、三高などで鍛えられた選手が入部し、他の五大学と互角の試合を展開した。神宮球場の六大学、特に「天下分け目の早慶戦」は全国的な注目のイベントとなった。

ベーブ・ルースの招へいとプロ野球の誕生

夏の甲子園の朝日新聞、春の選抜の毎日新聞に対し、読売新聞が考えたのは人気絶頂のベーブ・ルースを招き、学生野球に対抗することであった。31年、ルースは来られなかったが、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスなど一流プレーヤーが来日、東京六大学の選手を中心とする選抜チームと対戦、観客動員も上々、読売もいい宣伝になった。しかし、どうしても目玉商品「ベーブ・ルース」を呼びたい。待望のルースがやってきたのは34年であった。だが、問題が起こった。文部省が営利目的の大リーガーとの試合に学生が出場することは禁止するとの指令を出したのだ。

そこで考え付いたのは、大学の卒業生を中心に俊英を集め、全日本軍を結成することであった。早稲田OBの三原修、慶應OBの水原茂、明治OBの田部武雄などに加え、京都商業を中退した沢村栄治、北海道旭川中学を中退したビクトル・スタルヒンなどが集められた。サービス精神旺盛なルースは大雨の中でも試合に出場し、唐傘を指して守備位置に付くなど、絶大な人気があり、時の駐日米国大使グルーが「ルースは私が逆立ちしても及ばないほど効果的な大使だ」と日記に書き記したほどであった。

日米野球に出場するため、1934年に来日したベーブ・ルース(左)とルー・ゲーリッグ(右)、ルースは13本塁打を放った(共同)
日米野球に出場するため、1934年に来日したベーブ・ルース(左)とルー・ゲーリッグ(右)、ルースは13本塁打を放った(共同)

この全日本軍を母体に日本最初の職業野球チーム、大日本東京野球倶楽部が創設され、渡米を機会に「東京ジャイアンツ」と名乗ることになった。こうして36年2月、東京巨人軍、大東京、東京セネタース、名古屋金鯱、名古屋軍、大阪タイガース、阪急の7球団で全日本職業野球連盟が発足した。

戦時中は敵性スポーツ、戦後に復活

まがりなりにもスタートしたプロ野球は、選手不足と日米関係の悪化、太平洋戦争の勃発により苦難の道を歩むことになる。まず日中戦争の拡大に伴い、プロ野球選手は続々と応召され、外地に送られる者も出てきた。そして日米開戦、米国生まれの野球は「敵性スポーツ」として白眼視され、そうして中でいかに生き残るかを模索することになる。チーム名もタイガースは猛虎軍、イーグルスは黒鷲と変え、野球用語から英語を追放した。ストライク・ワンは「よし、一本」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」……といったナンセンスなことが実施されたのだった。さらに戦局がひっ迫すると、野球帽を戦闘帽に変え、「米英撃滅」の看板に向かって手榴(しゅりゅう)弾を投げてから試合開始となる有り様だった。

日本職業野球連盟は日本野球報国会と名称を変更し、細々と試合を続けていたが、44年9月の「日本野球総進軍優勝野球大会」を最後に活動の「一時休止」を発表した。すでに東京六大学野球連盟は前年に解散していたため、これで日本から「野球の火」は消えた。

45年8月15日、天皇の「玉音放送」により国民は敗戦の事実を知った。長い戦争が終わり、人々は焦土の中で立ち上がった。庶民にとって数少ない娯楽がラジオと野球だった。日本人は心底野球が好きだった。敗戦から2カ月後、占領軍に接収され「ステート・サイド・パーク」と名を変えた神宮球場で早くも東京六大学OBによる紅白戦が行われ、野球に飢えたファンで球場は満員になった。

「占領をスムーズに行うには天皇と野球を利用することだ」との米国の方針もあり、占領軍の後押しもあって、プロ野球、大学野球、そして中等野球も高校野球と名を変え、これまた人気スポーツとなっていった。

高度経済成長とON時代

東京六大学野球や高校野球に人気面で遅れを取っていたプロ野球が国民的関心の的となったのは、スーパースター長嶋茂雄の巨人入団だった。立教大から神宮のスターとして巨人入りした長嶋は、初戦に国鉄の金田正一に4打席4三振の派手なデビューから期待に背(そむ)かぬ活躍をするとともに、一年遅れで巨人に入団した早稲田実業高卒の王貞治と3、4番を打つON砲は、ライバルとなる阪神の村山実、江夏豊両投手の存在もあって、マスメディアの報道も巨人一辺倒となった。

特に巨人のバックにある読売が「報知新聞」を傘下に収め一般紙からスポーツ紙に業態を変更。系列の日本テレビは後楽園球場の巨人戦の独占中継権を持っていたこともあり、高度経済成長時代のサラリーマンの一番安上がりな娯楽は「冷えたビールを飲みながらテレビで巨人戦のナイター中継を見ること」と言われるほどになった。

並んでポーズをとる巨人の王貞治選手(左)と長嶋茂雄選手=1970年2月15日、宮崎県営球場(共同)
並んでポーズをとる巨人の王貞治選手(左)と長嶋茂雄選手=1970年2月15日、宮崎県営球場(共同)

ONを擁する川上監督率いる巨人が空前絶後のV9を達成、長嶋が引退、次いで王もユニフォームを脱ぎ、赤ヘル軍団広島の初優勝、ヤクルトの日本一、そして西武ライオンズ、福岡ソフトバンクの天下、近鉄の解散と楽天球団の誕生、日本ハムが北海道へフランチャイズを移すなど、プロ野球の世界も大きく変わっていった。

日本人大リーガーの誕生

日本人選手にとって大リーグは遠い存在だった。1964年の村上雅則が日本人大リーガー第1号だが、「野球留学」したマイナーリーグからの昇格であり、村上に続く日本人大リーガーは、野茂英雄の登場まで30年待たなければならなかった。近鉄球団との確執、鈴木啓示監督への不信から、不退転の決意で渡米、1995年、ドジャースの一員となった野茂の活躍は想像をはるかに上回るものであった。

「トルネード投法」から繰り出される速球とフォークボールを武器に13勝6敗、奪三振236、オールスターにも選ばれ、日米双方の認識を一変させた。大リーグ関係者は、①戦力になる、②ベースカバー、けん制など野球の基本をマスターしている、③真面目で麻薬やギャンブルに溺れることがない、④観客動員にプラスになる、⑤多額のテレビ放映権料が入る……と日本人選手採用のメリットを学んだ。

野手なら毎試合に出場し連日のテレビ放映が可能だ。日本人選手で大リーグに通用する野手はいないか。イチローがいた! イチロー自身もMLBでプレーすることを望んでいたが、スターに去られるオリックスはどうするのか。2年後にフリーエージェント(FA)権行使による移籍は合法だが、日米双方で協議した結果出されたのが、「ポスティング・システム」であった。オリックス球団は入札によって最高額を提示した大リーグチームにイチローを譲る代わりに、大金を入手し、イチローに代わる選手の補強に使うことができる。

イチローはホームラン全盛時代の大リーグにバット・コントロールを武器にヒットを量産、強肩と俊足で守り、走る―「ベーブ・ルース」以前の野球の面白さを再現した。松井秀喜は名門ヤンキースがワールド・シリーズを制するとMVPに選ばれる活躍を見せた。

二刀流大谷翔平の登場

そして「二刀流大谷翔平」の登場である。2022年、投手として二桁勝利、ホームラン二桁とベーブ・ルース以来なんと104年振りの快挙を成し遂げたのだ。しかも、野球少年がそのまま大きくなって「ベースボールを楽しんでいるような」大谷の姿は日米のファンの心をつかんだ。野球の日本伝来150年、この機会に野球の神様が贈ってくれた「最高のプレゼント」が大谷翔平である!

バナー写真:アスレチックス戦に先発し、今季10勝目を挙げ、ベーブ・ルース以来104年ぶりとなる「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」を記録したエンゼルスの大谷翔平 2022年08月09日、オークランド(時事)